吉田沖の夜明け
2014-04-24
吉田沖の夜明け(2014年3月19日)
一カ月ほど前、まだまだ寒い朝でした。それでも遠くの朝靄が春の訪れを告げているようでした。
桜も散り、今やすっかり春です。昨日行ってみたらヒバリが鳴き、田起こしの済んだ田んぼに、レンゲの花が少しばかり咲いていました。
関市の中心市街地の北部に広がる約300町歩の田園地帯は、昔から「吉田沖(きったおき)」と呼ばれています。
かつて吉田沖の春は辺り一面、見渡す限りがレンゲ畑でした。今では夢のようです。そういう光景はもうずいぶん前になくなってしまいました。
「吉田沖」という呼称は、「吉田村(きったむら)の沖」ということを表します。「吉田」はかなり昔からの集落名のようで、吉田村と関村が合併して関町になり、やがて関市になりました。「沖」という言葉の使い方がどうもピンと来ないので、改めて調べてみると、「海又は湖などで、岸から遠く離れた所」という意味のほかに、「広々とした田畑や野原の遠い所」という意味があるそうです。
吉田村の集落から離れた広々とした区域のことを「吉田沖」と呼んだのだとわかります。ここには、昔から家屋が建ちませんでした。それは、人が住むのに適さない場所であったということです。低湿で水はけが悪く地盤が弱かったのです。
吉田沖の田園風景が今のようになったのは土地改良が行われてからです。田んぼのまん中に、土地改良を記念して建てた大きな石碑があります。
土地改良碑の裏面には、「一大事業」の沿革等が刻まれています。以下は、碑文の写しです。
沿革
吉田土地改良区域は、通称吉田沖と称し、中濃地区最大の穀倉地帯であるが、道水路の便極めて悪く、地区関係者は時代の変遷に伴い、農業経営の合理化を促進するためには先ずもって、土地基盤整備をすることが根本的解決なることを痛感、当時岐阜県営事業にて、農免道路が地区内を東西に新設され、この用地の処理についても基盤整備と並行して施行すれば、諸問題も一挙に解決一石二鳥なるの世論が出、吉田土地改良区設立準備委員会を設ける。委員の努力は基より、関係者の深い理解により、昭和四十四年六月末、岐改第五二五号、総事業費六八五、四七八千円、六ヶ年継続岐阜県営事業として認可、今年八月、吉田土地改良区設立以来、満八ヶ年の歳月と巨額の事業費を投じ完成、尚当地区は超湿田地帯なる故事業計画の変更を行い、ほぼ全域に亘り特殊工法による暗渠排水を同時に施行した。
事業概要
工事着手 昭和四十四年十月
工事完成 昭和五十二年三月
総面積 三一三、三ヘクタール
組合員数 六九九名
総事業費 金壹拾億五百九拾貳萬壹千圓也
地区の概要 改良前 改良後
字数 七八 三一
ほ場枚数 五、五〇〇 一、〇三五
ほ場面積 二九三、六ヘクタール 二七五、五一ヘクタール
道水路面積 二〇、三ヘクタール 三七、七九ヘクタール
右、事業施行に当り、国、県、市の関係係官の熱烈なるご支援に対し、感謝の意を表すると共に、一大事業の完成を記念するため組合員に計り、この碑を建立する。
昭和五十二年三月吉日建之
関市吉田土地改良区
昭和44年に総事業費6億8547万8千円、6ヶ年事業として始まり、8年後に完成したときには総事業費が10億592万1千円になっていたようです。
昭和45年度の関市一般会計予算は15億円余、それが昭和52年度には69億円余に伸びたという高度経済成長期のことです。(さわたり通信 「関市の議会費」 2014-04-08付を参照)
こうして「超湿田地帯」が、県下でも有数の良田に変わりました。その頃は、農業経営にもまだ今より希望があった時代だと思います。今は、関市の農業だけでなく、日本の農業全体が危機を迎えています。
来日したバラク・オバマ米大統領と安倍晋三首相が今日の昼、記者会見を開き、安倍首相は「国家百年の計であるTPP」と言っていました。首相が描く百年後が私には魅力的に見えません。
百年後の吉田沖はどうなっているのでしょうか。
吉田沖を見るたび、この農地を生かすことができなければ関市の農業はだめだなと、いつも思うのです。
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