SSブログ

こんなに大きくなりました!

2015-03-26

昨日は、地元の小学校の卒業式でした。

平成26年度旭小卒業式.jpg

 

 

式の最後に、在校生と卒業生が「送別のことば」を述べます。 

それは、短いフレーズをみんなで語り継ぎ、ところどころのフレーズは全員で声を合わせて繰り返すというやり方です。

卒業生のことばの中に、私たち来賓へのことばもありました。

「地域のみなさんに見守られて、こんなに大きくなりました」

というようなことばだったと思います。

「こんなに大きくなりました!」 

壇上に並んだ卒業生のいちばん後列から、

まっすぐにこちらを向いて声をはりあげたのは、

実際に卒業生70名の中でいちばん背が高い少年でした。

彼の顔に見覚えがあると思いました。

彼らの入学式のときの面影がよみがえってくるような気がしました。

本当に大きくなった!

思わず笑みがこぼれてしまいました。

送別のことばの最後に歌われる在校生の歌と卒業生の歌にはいつも胸が熱くなります。

彼らの成長はめざましいものだと思います。

考えてみると彼らが生まれた頃に、私は初めて市議になりました。

振り返って自分はどうだろうと思うと、とても彼らに及びません。

みなさんには無限の可能性がある

お祝いのことばでそう言ってみえましたが、彼らが立派な大人になっていくのを想像しました。

子どもの成長は、ひとりひとりの存在が奇跡だということを感じさせてくれます。

子どもが元気に育つというのはうれしいことだなと、 しあわせな気持ちになって帰って来ました。

関市立旭ヶ丘小学校は私の母校です。

自分が卒業してから何年だろうと数えてみて42年も前のことだと気づき、時の流れを感じました。

私の学年は6クラスで、当時は全校で1500人を超えていました。 

自分の小学校の卒業式のことを思い出しました。

42年前の卒業式の朝、私は前日から高熱で学校を休み、熱が下がりませんでした。

父母と一緒に小学校の近くの医院に行って診察を受けました。

たぶん注射を打たれと思います。

しかし、卒業式はあきらめざるを得ませんでした。

家への帰り道に、父が車を回して小学校の横を通ってくれました。

体育館のそばを通るとき、

「なおき」と呼ばれて目をあけました。

ハンドルをにぎる父が振り返り何かを言ったという気がします。

発熱で意識がもうろうとしながらも、私は窓越しに体育館が近づき遠ざかるのを見て、また目を閉じました。

まぶたの裏にクラスメートの顔が浮かびました。

これが私の小学校の卒業式の日の思い出です。

思えばずいぶん父母をがっかりさせただろうと思います。

喜ばせてあげられなかったのが心残りです。

父は思いのほか早くに亡くなり、

今ではあのとき何を言ったかもきけませんが、

わざわざ遠回りして体育館の近くを通ってくれた親心が今になって身にしみます。

自分が小学校の卒業式に行けなかったことを母に話したところ、

「あれ、そうやったかね。」

母はすっかり忘れていました。

「かわいそうに。あんた弱かったでね、よう熱を出して。」

そう言って母は、

「私の卒業式には誰も来てくれなかった」

という話をしてくれました。

空襲がひんぱんになった終戦の年の春に、幼かった私の母は飛騨古川(今の飛騨市)に疎開しました。終戦後、一緒に暮らしていた母親(私の祖母)は卒業式の日も仕事に行き、父親(私の祖父)は名古屋で働いていました。

空襲はとてもこわくて、疎開するときのバスの中で、

「バスに爆弾が落ちたら死ぬんやな」

と、当時5歳だった母は思ったそうです。


昨日の「しんぶん赤旗」の1面トップの見出しは、

陸自、隊員に”遺書”強要

「家族への手紙」置いていけ

「戦争立法」備える事態

というものでした。

無関心ではいられません。

 

旭小運動会 2014年.jpg

 

昨年秋の運動会


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。